魔王のくせになまいきだ
たった今、『まおてん』というエロゲをクリアした。
僕が崇拝してやまない金色ラブリッチェの続編が出るということで、さかき傘先生の作品を何かやっておこうと思い購入した次第であるが、このまおてんもまた素晴らしいものだった。ちなみにタイトルに大きな意味はない。トロトロトロピカルまでやった。
年末年始からの僕
さて、そういえばこのブログ2019年最初の記事なわけだが、割とアクティブに動いていた。raruくんとかいりくん、それからモヒカンを落としてしまったモヒくんとスポッチャにいって狂ったように体動かしたり、高校の頃の同級生と64の往年の名作で遊んだり、東京でめちゃくちゃ美味しいとんかつを食べてクリード2を見たり、普段はあんまり出来ないことをやったものだ。
もちろんその間、いつもどおりにトレーニングも行った。ちなみにこれを書いている日(正確には前日だが)は脚の日であり、アップのあとスクワット150kg、130kg×8、110kg×8、100kg×8、自重でジャンプのトレーニングとスプリント5本をやった。
そうそう、それからモヒ君と京都で文学フリマにもサークル参加してきたよ。モヒ君と筋トレしたあと、そのまま車で日帰り強行ツアー。アホみたいに疲れたけど、とても意義のあるものだった。2019年は、今までやっていたことをさらに進化させていきたいと思う。
否応にも変わっていくものがある
そんなふうに決意を固めていても、往々にして物事は思い通りに進まないものだ。時代はどんどん流れていき、気づけば平成も終わる。僕の生活も少なからず変化するし、そのあとのことなんて全然どうなるかわからない。思うように出来ないことがきっとたくさんあるだろうと思う。窮屈に感じることだって、ままならないことに絶望しちゃうことだって、あるかもしれない。経験上、どんなに周到に考えていても、計画通りにことが進むことって、あんまりなかったから、今年もきっとそうなのかもな。
退屈な変わらない世界と窮屈な変わる世界
そんな風に考えていたとき、僕はまおてんをプレイした。そしてすべてをクリアしたとき、なんとも運命的なものを感じたものだ。ネタバレはしないけれど、変わって欲しくないものが変わり、変えたいものが変わらないと感じている心が、すごくすっきりした。僕たちには変わって欲しくないことがたくさんある。ずっとこのままでいられたらいいなって、誰でも一度は思うことだ。そのために努力することだって、素敵なことだと思う。けれど、それはすごく退屈なことだ。だからといって、変わることがいいことなのか。変わった結果、自分にとって不都合なことが起きる可能性だってとても高い。そうなってしまえば、世界はとても窮屈だろう。
でも、この作品をプレイして、僕はこう思った。そういう可能性に満ちた日常こそが素晴らしいものなのかもしれない、と。ずっと続けばいい今や、ロマンとリスクに満ちた非日常をいつも天秤にかけて、傾いたり釣り合ったりしている様をハラハラ眺めて一喜一憂する事の、楽しさ素晴らしさ人間らしさ。
幸運なことに、僕は独りじゃない。きっと独りだった頃の僕なら、こういう感想は抱けなかっただろう。作中でも、連太郎が一人で全部解決することは一貫してなかった。独りでは、傾く天秤に振り回されるだけなのだ。でも今は、その天秤に一緒に分銅を載せたり、傾きに喜び悲しむことができる人たちがいる。それならきっと、これから来る沢山の日常や、無数の変化を楽しんで生きていけると思う。もちろん、そんな中でも自分の中の芯や軸はぶれない様にあるべきなのだけれど。
2019年、やりたいことや達成したいことが、沢山ある。きっとそれは増えたり減ったりするだろう。でもそれは、悪いことじゃない。どんなに世界が変わらなくても、あるいは変わっても、僕はずっと僕のままだ。僕が好きな人はずっと、僕が好きな人で、僕が楽しみたいものはずっと、僕が楽しみたいものだ。窮屈で、だけど全く退屈しない世界で、僕は明日も笑っていようと、そう思えたんだよ。