ゆるふわおぎゃり系おじさんの冒険

3人の大人のアウトドア生活を記録していきます。登山、キャンプ、ロードバイク、バンド、その他などなど。

ゴールデンタイムを生きる

カッコつけねー人生なんてゴミだ

これは今クリアしたゲーム、金色ラブリッチェに出てくるセリフだ。

こんなに泣いたゲームは初めてかもしれない。声を上げて泣いた。胸がいっぱいで、思い出すだけでもまだ涙が溢れてくる。最後の演出がこれまたズルい。理亜ルートは途中から嗚咽まみれだった。ネタバレはしない主義なので、気になる方は是非買ってプレイして欲しい。仕事と筋トレで忙しく積みがちな僕が、久しぶりにクリックする手が止まらなかった。僕的には、数あるプレイしてきたゲームの中でも、トップに躍り出るほどの作品だった。理亜の生き様は、僕の心に強く深く響いてきた。

このゲームを終えて、僕は自分のゴールデンタイムがまだ続いているという幸せを改めて知ることができた。そしてそれをもっと輝かせるように、カッコいい自分であるように、そういう風に生きていようと思った。黄昏にきらめく金色の世界が終わっても、また登ってくる明るい世界で幸せであるように。

これを書いている今も視界が潤んでいるが、少し冷静になり、僕がどうしてここまで素晴らしい作品に会えたのかを考えてみた。

それは単純にずっとエロゲを続けてきたからなのだが、よくもまあ学生時代から社会人になってしばらく経つ今までやれるものだと思う。

なぜ僕はエロゲをするのか

僕は18歳を迎えてからこの方、エロゲというコンテンツを恒常的にプレイしている。
ジャンルは純愛系や泣きゲーとかイチャラブ系が多いけど、欝も燃えも萌えも陵辱も、気になったものはなんでもやる。時には初音島の学生だったり、頭のおかしい仲間とループ世界で頑張ったり、孤島で女の子達と奮闘したり、文化祭を企画したり、飲食店を続けるために頑張ったり、隕石から生まれた女の子にバカバカと言われたり、白衣を着た幽霊の女の子に日記を書けと叱られたり、対魔忍を調教したり、バンドマンになったり、ツルギを纏って戦ったり、聖遺物を持って詠唱を唱えたり、田舎町で伝承に挑んだり、まあ色々な疑似体験をしているわけだ。
感情移入するために、主人公の声を読み上げることも少なくない。
とにかく僕は、液晶画面の向こうで色々な世界を生きた。そのたび泣いて笑って、怒って傷つき傷ついて癒やし癒され悲しんで、誰かを助けて助けられ、愛して愛された。
なぜそれほどまでに部屋の中で数多の感情を揺れ動かしてきたのだろう。だって結局それらは全て疑似体験だ。一歩外に出てみれば、世界には同じような感情を実際に体験する機会が(犯罪行為等は当然除いて)溢れているではないか。
そんな風に思う方は、きっとエロゲを手に取ることはないだろう。
少なくとも僕は、いわゆる青春時代という言葉で誰もが思い浮かべるであろう十代後半から二十代前半くらいまでの時間において、表に出て色々な人と関わって笑顔であふれる思い出を作る、なんて経験をすることが、終ぞ出来なかった。様々な要因があり、もちろん自分の弱さもあり、僕は学生時代の大切な時間を真っ暗な部屋で過ごすことになった。
そんな青春乗り遅れ野郎の僕は、夏にコンプレックスがあり、冬にジェラシーを覚え、春に何もスタートできず、秋にステップアップすることもなく、ただポツンと一年中楽しそうな人達を、随分長いこと恨めしく眺めていた。
その輪の中に入る努力は一応したと思う。けれど、僕は精神がとても未熟で脆くて、嘲りやからかいに耐えられず、蔑んだ視線や、あるいは全くの無関心に傷つくことしかなかった。当たり前に友達とワイワイやったり、当たり前に彼女がいて、当たり前に性を知って、当たり前に青春を謳歌していく周りに取り残された僕には、一人で閉じこもるしか選択肢がなかったし、その時点で例え何らかのチャンスがぶら下がっていても、もはやそれを掴む気力も握力もありはしなかった。
だからその失った時間への憧憬や、もしかしたらあったかもしれない未来や過去を、15インチ程度の窓から見えるキラキラした世界に求めるのは、ある種自然な行為だったのだろう。そしてこれからの楽しい未来を取り戻しに行くんだって、そう思っていた。
それではなぜエロゲなのか。コンシューマのゲームでもいいではないか。確かに一理ある。しかし、両者を比べた時、エロゲにしかないものがある。エロシーンだ。僕の欲しい青春の定義は、キラキラ輝く時間を過ごすこと。キラキラ輝く時間というものは、可愛い女の子とエッチなことをするという事柄も含まれている。つまり、その条件が内包されているコンテンツはエロゲ以外にありはしないのだ。
なんてカッコつけて言ったはいいけれど、結局のところ僕はエロゲという、独りでいても自分の欲が吐き出せて、感情も動かせて、さも大冒険した気になれるコンテンツに縋っていたのだ。そしてエンディングを迎えるたびに、自分は主人公ではなく、それを眺めていた窓の向こう側の人間だと思い知らされて、けれど認められないからまた次を探す、ということを延々と繰り返していた。

それでもカッコつけるんだ

だけど、本当はカッコよく、強くありたかった。みんなの羨望の先に、自分がいたかった。輝いて、愛されていたかった。
時間は限られている。与えられた時間も平等なようで、実は違う。色々な事情で、同じ一日なようで、その重みが違うなんて当たり前にあるんだ。その多くを、なるべく笑顔でいたいと思うし、大切な人にはそうあって欲しい。
だからそろそろ、僕もキラキラ光るウィンドウを閉じて、窓の向こうの真っ暗な世界へ旅立つ時なんだと思うんだよ。もう、金の絵の具は持っているはずだから。
そんな風にして今は、なんとかこの世界でカッコつけて生きている。阿呆な事も馬鹿な事もするけれど、金色に光る思い出がどんどん増えているよ。もしあの時の僕にそれを教えてあげることができたとしても、絶対に秘密だ。それを傷ついて泣きながら、それでも強くなって見つけるからカッコいいんだから。僕はネタバレはしない主義なんだ。
まあでも、空想世界の冒険はやめたりはしないんだけどね。だって、エッチなコンテンツが女の子に見つかって一悶着というシークエンスは、そんな物語にありがちだろう。その時のためにも、やっぱりエロゲを続けなければね。

ゴールデンタイムとハッピーエンド

最後に、僕はハッピーエンドが一番好きだ。バッドエンドが美しい作品なんかもあるけれど、やっぱり幸せなエンディングに勝るものはない。みんな全て、ハッピーエンドであるべきで、そうなるためにあらゆる手を尽くすべきだ。ご都合主義でもなんでも使うべきだ。だってハッピーエンドの後も彼らの物語は続くんだ。大概は、時間的にはそのあとの方が長い。僕を置いて、多くの物語は続いていく。ならせめて、ちゃんとハッピーエンドになってくれよって心から願わずにはいられない。
だから僕も、自分の物語にはハッピーエンドしか求めていない。人生は絶対、ハッピーエンドの連続でなければならない。短期的な悲劇も、長期的には幸せの伏線であるべきだと心から思う。
だからもし、僕の物語を窓の向こうで眺めている人がいたとしたら、エンドロールのあとに入れる言葉はもう決まっている。めでたしめでたし、だ。